マイペース・オブ・ザ・イヤーに輝きたい、ぬるいぬ(@null_inu)です。
改めて考えてみると、ただただのんびりと暮らしていたいだけなのに、どうしてこんなにも難しいんだろうというお話をします。
生きるための擬態
ブログを書き始めてからというもの、自分の気持ちに向き合ってみたり、内省する時間を持つようになったりして、どんどんと自分の内側へと潜り込んでいる気がします。
今回のお話は、その営みの中で気づいたことです。
僕は地位とか名誉とか圧倒的な富とか、そんなものにはあまり興味がなくて、シンプルに自分の好きなこと(=表現活動)をしながら細々と暮らしていたいと心から思っています。
さながら、山に籠り自身の美意識と格闘しつづける陶芸家のようなイメージでしょうか。俗世の価値観とはまったく異なるベクトルでオリジナルに生きる。そういうものに強烈な憧れを抱いています。
ただ、残念ながら僕にはそれができるほどの強い意志も、類稀なる才能も備わってはいませんでした。となれば、社会に溶け込んで労働し、お金を稼いで生き延びるほかありません。さも協調性のある人間かのような振る舞いでもって、立派な社会人に擬態しつづけてきたのです。
他人軸で生きてきた
そんな暮らしを何年か続けているうちに、いつの間にか世間の目や常識みたいなものが脳内に刷り込まれていて、人生観や幸せの定義にいたるまで、何もかもが他人の価値観の寄せ集めになってしまっていました。
もはや自分の人生を生きていない状態で、常にどこか空虚さがつきまとっています。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか…。生き延びるためとはいえ、擬態を続けているうちに自分の本心すらも見失っていたのですね。
本心を思い出す、29歳の決断。
もう10年も前の話になりますが、30歳を目前に控えた僕は悩んでいました。仕事において何の結果も出せないままそれなりの年齢を迎えてしまった自分にも、いつまで経っても改善されない労働環境にも、心底ウンザリしていたのです。
自分には向いていない。もうキッパリ会社を辞めて働き方を変えようと決意し、社長にその旨を申し出ました。
過酷な環境には合わない
当時は人手が足りていなかったこともあり、休みや自分の時間などはほぼ皆無でした。業界や時代的に残業の概念すらありませんでしたが、一日12時間以上は働いていましたし、土日もあまり休んでいなかったことを踏まえると月平均で80〜100時間くらいは残業していたと思います。もしかしたらそれ以上かもしれません。
そういう時代だったのですね。
もう二度とゴメンですが、20代〜30代半ばくらいにかけては一生分働いたんじゃないかと思うくらい働きましたね…。疲れ過ぎて40℃の熱を出して寝込んだことがあったのですが、「こんな忙しい時期に勘弁して」とキレられた時は本気でこのまま逝ってやろうかと思いました(笑)
会社に行きたくなくて、車に撥ねられて入院したいと考えてしまうくらいに疲れていました。
もっと過酷な環境で働いてる人なんていくらでもいるとは思いますが、僕からしてみれば十分な致死量でした。ひたすらに疲れ切った僕は、もう休ませてほしいと強く思っていました。
当時は「生活なんて顧みず仕事に打ち込むことこそが美徳」みたいな風潮があり、その巨大すぎる波に対してとてつもない違和感を覚えつつも、抗うことすらできませんでした。
そういった過酷な環境の中で成長したいなんて微塵も思えず、しんどいのは嫌だし、嫌なものからは逃げたい!としか思えませんでした。
結局辞められなかった男の末路
社長には「もう仕事をがんばる人生はなくていいから、少しペースを落としてのんびり暮らしたい」という趣旨のことを退職の意思と共に伝えたものの、ベースの思想が異なるため、1ミリも伝わらずでした。
返ってきたのは「それは老後にすればいいんじゃないか」という言葉。その場では諭されてしまい、僕も毅然とした態度を貫くことができず、結局辞めさせてはもらえませんでした。
そのまま10年が過ぎ、今に至ります。さすがに当時とは立場も状況も変わりましたし、あの時ほど疲れ切ってはいませんが、根本的な想いは何一つブレていません。
いまだに「仕事で成功したい」という野望は湧いてこず、のんびり楽しく暮らしたいと思っているだけなんです。
これが、結局辞められなかった男の末路です。10年の間に実にいろいろなことがありましたが、本質的な概念は驚くほど変わっていません。だからこそ、いま改めて会社を辞めることを決意できたのだと思います。
時間は有限、会社は責任を取ってくれない
余談ですが、初めて「もう会社をやめよう」と決意してから時間の経過を経たことで、「のんびりな老後」のために今を犠牲にしたくないという気持ちがさらに強まったと感じます。
40歳を過ぎ、物理的に衰えを感じ始めたことも大きな要因だと思います。
今ならはっきりと分かりますが、仮に老後を迎える前に不慮の事故や病気で人生が終わってしまったら会社は責任を取ってくれるのでしょうか?まぁ当然、無理ですよね。
それに、百歩譲ってやりたいことを老後に取っておいたとしましょう。その時、やりたいことをやろうにも、今と同じような健康な身体と気力・体力がなければ実現が難しいと思いませんか?25年後なんてカスッカスになっているに決まっています。
多くの人は、大切な自分の人生のリソース(時間や健康な身体)を他人のビジネスのために浪費し過ぎていると感じています。
まとめ
これまでの短い人生を振り返りつつ、やっぱり僕はただただのんびり暮らしていたいだけなんだなと改めて実感しました。
世の「労働&消費」の流れとは、あまりにもペースが合わないと感じています。
のんびりと、自分の心地よいリズムで暮らしたい。そんなシンプルなことが、なんでこんなにも難しいのか…。
まだまだ「仕事に人生を捧げ、たくさんお金を稼いで、たくさん消費する者こそが正義」という前時代的な価値観が色濃く残っているように感じます。
見栄を張らず、足るを知ってそれなりに暮らす。そういった生き方を願っている人たちが、その選択に自信を持てる風潮になってくれることを切に願います。
それでは、今回はこのへんで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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